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藤あや子(ふじ あやこ)です。

【藤あや子(ふじ あやこ)】
藤あや子(ふじ あやこ、1961年5月10日-)は日本の女性演歌歌手である。
所属事務所はバーニングプロダクション。
秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)出身。


【藤あや子(ふじ あやこ)の経歴】
1987年6月21日、CBSソニーから「村勢真奈美」の芸名でテビュー、曲は「ふたり川」作詞:石本美由起、作曲:船村徹。
1989年9月21日、「藤あや子」としてデビュー、曲は「おんな」作詞:荒川利夫、作曲:叶弦大。
艶やかな着物美人として知られており、着物メーカーのキャラターをつとめることも多い。
また作詞・作曲を行うとき「小野彩(このさい)」というペンネームを使っており、最近では自身の作詞作曲の作品も多い。
1992年「こころ酒」から1994年「女泣川おなきがわ」まで3作連続オリコンシングルチャートTOP10入りした。
1991年、所属レコード会社・SMEの担当ディレクターが藤の自宅で自殺。
1992年、「こころ酒」で日本有線大賞を受賞。
1994年、「花のワルツ」で日本有線大賞を2度目の受賞。
「さんまのまんま」にて二十歳で娘を出産をし、離婚後にデビューをしたと語っている。
本人は別に隠していた訳ではないが、妖艶な雰囲気から子持ちに見られないので知らない人も多い。
2007年9月21日放送の「ライオンのごきげんよう」にて、娘が同年の1月15日に入籍した事を話した。またその際、その婚姻届の保証人欄に王貞治氏と野田秀樹氏の両氏に署名してもらうに至る経緯を披露した。
見た目からは想像しにくいが、かなりのロック好きで、ボン・ジョヴィやエアロスミスの日本公演では度々藤あや子の目撃情報が音楽雑誌等に寄せられることもあり、音楽評論家で元BURRN!誌編集長の酒井康との対談で「自分の葬式には是非スティーヴン・タイラーに『アヴェ・マリア』を歌ってほしい!」と発言したこともある。


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載しました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E3%81%82%E3%82%84%E5%AD%90



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二葉あき子(ふたばあきこ)です。

【二葉あき子(ふたばあきこ)】
二葉あき子(ふたばあきこ 1915年2月2日 - )は歌手。


【二葉あき子(ふたばあきこ)の経歴】
広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。
本名は加藤芳江。
広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。
音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。
その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。
卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。
教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。《愛の揺り籃》が最初のレコードだった。
昭和14年、《古き花園》がヒットすると人気歌手としての声価を得る。
戦時中は歌手として慰問活動をする。
戦時下の昭和18年(1943年)、結婚し一男をもうけるがすぐに離婚。
その後は自立する女として生きた。
1945年8月6日、久しぶりに帰郷する為、広島から芸備線の汽車に乗り、トンネルをくぐっているときに原子爆弾が投下され、トンネルを出たら、きのこ雲と落下傘を見たという。
戦後になると、《別れても》《夜のプラットホーム》《恋の曼珠沙華》《さよならルンバ》等のヒット曲を放った。
昭和25年の《水色のワルツ》は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。
日劇では同じコロムビアの淡谷のり子、笠置シヅ子、渡辺はま子らとよくステージに立ったという。
昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。
その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。
自ら低音発声法を作った。
紅白歌合戦には昭和35年(1960年)まで出場。
昭和57年(1982年)に紫綬褒章、平成2年(1990年)には勲四等瑞宝章を授賞。
昭和59年(1984年)に親友の伊藤久男の一周忌に胡美芳、池真理子、並木路子、安藤まり子と「五人会」を結成する。
懐メロ歌手として21世紀を超えてもなお活躍したが、老人性難聴のため2003年夏にファンのつどいにて引退宣言。
現在は広島に帰郷して余生を送っている。
淡谷のり子、藤山一郎、霧島昇ら戦前・戦中・戦後を代表する大物歌手の殆どが鬼籍に入る中、二葉あき子はこうした大物歌手の数少ない生き残りと言ってよい。
また、NHK紅白歌合戦に、第1回から第10回まで連続で出場した唯一の歌手である。

[主な作品]
「乙女十九」
「あの夢この夢」
「古き花園」
「純情の丘」
「牡蠣の殻」
「愛国行進曲」(共唱:霧島昇、伊藤久男、中野忠晴、松平晃、佐々木章、松原操、渡辺はま子、香取みほ子)
「白蘭の歌」(共唱:伊藤久男)
「あの花この花」
「なつかしの歌声」(共唱:藤山一郎)
「お島千太郎旅唄」(共唱:伊藤久男)
「新妻鏡」(共唱:霧島昇)
「めんこい仔馬」(共唱:高橋祐子)
「高原の月」(共唱:霧島昇)
「馬」(共唱:藤山一郎)
「別れても」
「オリーブの歌」
「青い花瓶」
「夜のプラットホーム」
「フランチェスカの鐘」(セリフ:高杉妙子)
「村の一本橋」
「バラのルムバ」
「恋のアマリリス」
「恋の曼朱沙華」
「雨の日ぐれ」
「巴里の夜」
「さよならルンバ」
「水色のワルツ」
「嗚呼北白川宮殿下」(共唱:伊藤武雄)


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載しました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E3%81%82%E3%81%8D%E5%AD%90



古き花園




二葉あき子(with高木東六) 水色のワルツ(ステレオ) 1999.8




歌う明星 01


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藤原義江(ふじわら よしえ)です。

【藤原義江(ふじわら よしえ)】
藤原義江(ふじわら よしえ、男性、1898年12月5日 - 1976年3月22日)は、日本を代表するテノール歌手の一人。
「我等のテナー」の愛称で有名だった。
藤原歌劇団の創始者でもある。


【藤原義江(ふじわら よしえ)の経歴】
18歳の時に観た松井須磨子、沢田正二郎ら芸術座の演劇に憧れる。
折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、彼に与えられた「戸山英二郎」なる芸名で端役を務める。
ローシー歌劇団のオペラ公演に惹かれた藤原は、新国劇を抜け浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。
1918年には根岸歌劇団(金龍館)の一員にも潜り込むことに成功、浅草オペラ黄金期の頂点にあった金龍館の舞台に立つ。
藤原は1920年3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立つ。
学資金はちょうどこの頃門司で他界した父リードの巨額の遺産であり、妊娠した妻・文子を残しての出発であった。
ミラノで初めて本場のオペラ公演を聴き、浅草オペラとの懸隔を実感し、また三浦環の紹介で声楽教師につくこともあったようだが生来の浪費癖は治まらず資金は枯渇する。
1921年頃にはロンドンに渡り、当地で知り合った吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てもあり、日本歌唱のリサイタルを開くなどした。
藤原は1923年帰国する。
4月10日に帰国した藤原は5月6日、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功したのである。
「我等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を博すが、東京・京橋の開業医の妻、宮下あき子(三井財閥の番頭、中上川彦次郎の妾腹の子で女子学習院出身)とのスキャンダルが大事に発展、ほとぼりを冷ます目的で外遊。
ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、あき子からの情熱的な手紙を受け帰国する、といった行動を2度も繰り返す(1930年に結婚)。
この間1926年にはニューヨークで米ビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行ってもいる。
1930年にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)のアルフレード役で初めて本格的なオペラ出演を果たす。
そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航する。
1931年にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニ『ラ・ボエーム』のロドルフォ役で舞台にも立っている。
1932年には帰国、この頃軍歌「討匪行(とうひこう)」の作曲・歌唱を行ったりもしている。
1934年6月、藤原は日比谷公会堂にてプッチーニ『ラ・ボエーム』(原語上演とみられるが、異説あり)の公演を行う。
「東京オペラ・カムパニー公演」と銘打ってのものだが、これが藤原歌劇団の出発点となる。
その後同カムパニー名義でビゼー『カルメン』、ヴェルディ『リゴレット』(マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演している)、プッチーニ『トスカ』などで着実に舞台を重ねる。
藤原は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけたし、訳詞上演の際には妻あき子がしばしば(柳園子の筆名で)参画している。
「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年3月26日から歌舞伎座で行われた『カルメン』であり、大成功を博した。
藤原とその歌劇団は敗戦後半年も経ない1946年1月には帝国劇場で『椿姫』舞台公演を再開する。
1950年には東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を建設(三井高公の資金援助による)、やがて藤原自身も同所に居住することになる。
研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていた。
1957年には治まることのない女性遍歴に愛想を付かした妻あき子と離婚、彼女(藤原あき)は後に人気テレビ番組「私の秘密」のレギュラー解答者として著名となり、1962年に参議院議員となる。
藤原義江の最後の舞台は1964年の東宝ミュージカル『ノー・ストリングス』であった。
その後は脳血栓症、更にはパーキンソン氏病を患い、犬丸徹三の厚意で帝国ホテル内の専用室に居住し、ホテル内のレストランで食事をとる日々を過ごしたという。
1976年3月22日他界。
享年77。
なお藤原歌劇団は1981年、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となり、その名称を西洋オペラの公演事業名として残している。

[代表曲]
出船の港(昭和3年2月発売)
出船の唄(昭和3年2月発売)
波浮の港(昭和3年4月発売)
鉾をおさめて(昭和3年7月発売)
討匪行(昭和7年12月発売)
亜細亜行進曲(昭和7年12月発売)
太平洋行進曲(昭和14年5月発売)共唱:四家文子
特幹の歌(昭和19年2月発売)※特幹とは陸軍特別幹部候補生の事


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載しました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E6%B1%9F



波浮の港




皇軍大捷の歌


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愛国行進曲((1943)





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藤島 桓夫(ふじしま たけお)です。

【藤島 桓夫(ふじしま たけお)】
藤島 桓夫(ふじしま たけお、1927年9月18日-1994年2月1日)は大阪府出身の歌手。
本名、坂本義明。
愛称はオブさん。
藤島恒夫と表記されることがあるが誤り。


【藤島 桓夫(ふじしま たけお)の経歴】
大阪府内の電話局勤務を経て、1950年「あゝ東京へ汽車は行く」でタイヘイレコードからデビュー。
1954年「初めて来た港」がヒット。
以後「かえりの港」「さよなら港」などの港シリーズで一世を風靡。
1957年には「お月さん今晩は」がヒットし、マドロス物以外でもヒットが出ることを証明。
1960年、設立当時の東芝レコードに引き抜かれる形で移籍した。
同年、「月の法善寺横丁」が大ヒット、この曲は藤島最大のヒットとなった。
その後も長く活躍を続け、1980年にはデビュー30周年記念全国縦断公演を行った。
1992年、第34回日本レコード大賞功労賞受賞。
1994年1月10日に倒れ、2月1日、高血圧性脳出血のため死去。
同年、勲四等瑞宝章追贈。

[代表曲]
「たった一言なぜ云えぬ」(作詞・作曲 小池青磁)昭和29年
「初めて来た港」(作詞・作曲 豊田一雄)昭和29年
「かえりの港」(作詞・作曲 豊田一雄)昭和30年
「さよなら港」(作詞・作曲 豊田一雄)昭和31年
「流し舟唄」(作詞・作曲 豊田一雄)昭和31年
「また来た港」(作詞・作曲 豊田一雄)昭和32年
「お月さん今晩は」(作詞・松村又一 作曲・遠藤実)昭和32年
「アンコなぜ泣く」(作詞・松村又一 作曲・遠藤実)昭和32年
「凧々あがれ」(作詞・松村又一 作曲・遠藤実)昭和33年
「若い元気なお相撲さん」(作詞・松井由利夫 作曲・飯田景応)昭和35年
「月の法善寺横丁」(作詞・十二村哲 作曲・飯田景応)昭和35年


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載しました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E6%A1%93%E5%A4%AB



月の法善寺横町




さよなら港




さよなら港 / 藤島 桓夫


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波止場気質


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フランク永井(ふらんくながい)です。

【フランク永井(ふらんくながい)】
フランク永井(ふらんくながい、1932年3月18日 - )は、日本のムード歌謡歌手。
本名は、永井 清人(ながい きよと)。
宮城県志田郡松山町(現・大崎市)出身。
独特の低音は、多くの人を魅了し、歌謡界に多くの軌跡を残した。


【フランク永井(ふらんくながい)の経歴】
歌手にあこがれ上京。
進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を経て、アメリカ軍のクラブ歌手として月100ドルで契約する。
さまざまな「のど自慢大会」に出場し、「のど自慢荒らし」の異名をとっていたが、1955年(昭和30年)に日本テレビの「素人のど自慢」の年間ベストワンに選ばれたのを期にビクターと契約。
同年9月に「恋人よ我に帰れ」でデビューする。
ジャズを得意としたがヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向。
1957年(昭和32年)の「有楽町で逢いましょう」が爆発的ヒットとなり、一躍スターの座へ。
自ら見出した松尾和子と共に歌った1959年(昭和34年)の「東京ナイト・クラブ」は、デュエットソングの定番として現在でも歌い継がれている名曲である。
1961年(昭和36年)には二村定一のヒット曲「君恋し」をロカビリー風にカバーし大ヒット。
人気を不動のものとする。
吉田正とのコンビでも「霧子のタンゴ」、「妻を恋うる唄」などのヒットを連発するが、なかでも1977年(昭和52年)に発表した「おまえに」は、昭和歌謡史に残る名曲・名唱として人気が高い。
意欲的な試みにも積極的で、「君恋し」をゴーゴー風やジャズ風のアレンジで再録音したり、1973年(昭和48年)にはイタリアへ飛び、トランペッターのニニ・ロッソと共演し、録音を残している。
コンサートにおいては、趣向を凝らし緻密に練り上げられた構成のステージングに定評があった。
フランクはNHKで一席を披露したこともあるほどの落語好きとしても知られ、ステージのMCで小噺を披露することもあり、自宅の電話の保留音はファンだった8代目三笑亭可楽の出囃子にしていた。
レコード大賞とも縁が深く、大賞1回、歌唱賞2回、特別賞3回、受賞している。
可楽も「フランク永井って人があたしを贔屓にしてくれるんですよ。」とよく話しており、十八番の「らくだ」の屑屋の科白に「くず〜うぃ。・・・低音の魅力だね。こりゃあ。」というくすぐりを入れていた。
また牧伸二も漫談で「フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」というネタを披露していた。
NHK紅白歌合戦とも縁が深く、1957年の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場した(現役出場時島倉千代子と並び、紅白最多出場者だった)。
昭和50年代以後もコンスタントにヒットを出していたが、山下達郎作詩・作曲の「Woman」が話題を呼んでいた1983年(昭和58年)に紅白落選。
このことはフランクにとって大きなショックだったと言われる。
1985年(昭和60年)10月21日に愛人との間の子供の養育費の請求を苦に、首吊り自殺を図る(しかし実際は愛人と永井との子供では無かった事が検査の結果判明している)。
一命は取り留めたが、会話が不自由となり記憶が乏しくなるなど脳に重い後遺症を患った。
一時はリハビリ治療によって、看護婦相手にジョークを飛ばせるほど回復し、復帰も早期に行われる見込みだったが、次第に悪化。
四国での転地療養など様々な方法を試みたが好転しなかった。
やがて周囲も復帰を諦めていったが、恩師の吉田正だけは亡くなるまで諦めず、よくフランクを見舞っていた。
また、吉田と話すときのフランクは常人と変わらない状態で話すことが出来たと関係者が明かしている。

愛妻家と知られていたが夫婦の間に子は無く、長年連れ添った夫人とはフランクの介護問題及び財産問題での親族とのトラブルによる心労で離婚し、現在は実姉が面倒を見ている。


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載しました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%B0%B8%E4%BA%95



フランク永井 - おまえに 1966(S41)




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有楽町で逢いましょう(yuurakutyou de aimasyou)




Frank Nagai - Woman


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